茨城の民話Webアーカイブ

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三浦杉と九尾の狐

ミウラスギ ト キュウビ ノ キツネ

伝説

動物が登場するおはなし|殿様や武将が登場するおはなし|妖怪が登場するおはなし

原文

 茨城県の北端で栃木県との県境に近い常陸大宮市の旧美和地区にとても立派な大杉があります。山の上にある吉田八幡神社へ上る参道階段の両側に植えられたその二本の杉の木は途中に曲がった節もなく真っすぐに天に向かって伸びています。
 時は鎌倉時代になる少し前のころです。那須野に強力な悪狐(あっこ)が出現して困っておりました。これを退治するために派遣された三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したのです。そして無事に退治することができたため、この杉の木を神社に奉納しました。
 この話しを聞いた水戸光圀が、それならば、この杉の木は「三浦杉」と呼ぶのがよかろうとおっしゃり、それ以来神社の御神木として守られてきました。
 さて、この話を調べていくと壮大な妖怪狐「九尾狐」の話しにたどり着きました。ではこの東洋世界を股にかけた最強の妖怪「九尾狐」を順にお話しましょう。

(その一)妲己(だっき)(中国)
 中国の殷国の時代の最後(紀元前十一世紀頃)のことです。九尾の狐が絶世の美女「妲己(だっき)」に化け、国王の寵愛を受けるが、国王は妲己の気を引くために欲望の限りや残虐な見せしめなどを行うようになってしまいました。この欲望の限りは後に「酒池肉林」などの語源として伝わっていきます。しかし、この悪徳政治は武王の反乱で終わりを告げ、捕らえられた妲己は打ち首ときまりました。しかし斬首の執行人はあまりの妖気に刑を執行できなくなってしまいました。そこで釣りでおなじみの「太公望」の登場です。
 太公望は周の武王を補佐していた軍師で、妲己を妖怪と見破った太公望が「照魔鏡」をかざすと妲己は九尾の狐の姿を現し、雷雲が天をかけめぐり、飛び去ろうとしました。逃さじとばかり、太公望が投げた宝剣が体に当たり、九尾狐の体は三つに割れて死んだといいます。

(その二)華陽(かよう)(インド)
 しかしこれで、この妖怪は滅びていなかったのです。次は天竺(インド)に登場します。中国の九尾の狐が滅んだ700年後のことです。
 インドの耶竭陀(まがだ)国に華陽という絶世の美女にこの妖怪は変身して登場しました。ここでも九尾の狐が変身した華陽という美女に魅せられた王子は九尾の狐に操られて100人もの人民を惨殺してしまいました。これを救ったのが名医の耆婆(きば)です。正体を見破り霊験あらたかな杖を使って華陽の体を打つと、九尾の狐は正体をあらわして北の空へ飛んで逃げていきました。

(その三)褒似(ほうじ)(中国)
 次は再び中国です。周の武王が国を治めて12代目の幽王の婦人となった「褒似(ほうじ)」がこの九尾の狐といわれています。この褒似は美人だがなかなか笑わない。しかしそれまでに一度だけ笑ったことがありました。それは敵が侵入してきた時に合図で打ち上げた狼煙(のろし)を見たときでした。そこで国王は褒似の笑い顔見たさに、この狼煙を何度も打ち上げました。
 狼少年と同じく、狼煙が上がっても誰も敵が侵入してきたなどとは思わなくなりました。しかしついに本当に敵が攻めてきたのですが、狼煙を上げても見方は誰も集まりませんでした。そしてとうとう国は滅びてしまいました。そしてこの褒似も国とともに死んでしまいました。

(その四)玉藻前(たまものまえ)(日本)
 聖武天皇の頃に、九尾狐は若藻という名前の美少女に化けて、ひそかに遣唐使の帰国船にまぎれこんで博多にやってきました。しかし、博多に到着してまもなく、いつの間にか姿が消えてしまいました。それから350年後に若藻に化けていた九尾の狐は、今度は捨て子に姿を変えました。この捨て子は北面武士が拾い上げて「藻(もくず)」と名づけられ、美しい女性に成長していきました。そして18歳になった時に宮中に仕えると、たちまちその美貌で鳥羽天皇をとりこにしてしまいました。そして藻(もずく)は「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれるようになります。しかし、天皇は病に罹り、この寵愛が深まるにつれ、天皇の病は重くなっていきました。天皇の病の原因を調べていた陰陽師安倍泰成(晴明の子孫)が、この玉藻前が妖怪であること看破します。陰陽師に見破られた玉藻前は九尾の狐の姿を現し、辰巳の方角(東南)に姿をくらましてしまいました。
 都から逃れた九尾の狐は下野国那須野で今度は、か弱い娘に姿を変え、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいます。ここでの悪さを知った那須野領主の要請で、鳥羽上皇は陰陽師安部泰成を軍師として三浦介義明と上総介広常を将軍に8万の軍勢を集め、那須野に悪狐(九尾の狐)退治に派遣しました。しかし、九尾の狐の術に翻弄された軍勢の多くは戦力を失ってしまい、軍勢は窮地に追い詰められてしまいました。
 やっとここでこの「三浦杉」の登場です。悪狐退治で窮地に立った三浦介義明は横須賀に城を持っていた三浦半島を領地とする豪族です。この三浦杉に伝わる話では「那須野の悪狐(あっこ)退治に苦戦していた三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社(八幡神社)にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したとあります。三浦介と上総介は、犬の尾を狐の尾と見立てて悪狐退治の訓練をし、三浦大介の射た2本の矢が九尾の狐を射止め、悪狐を退治することができました。この犬での稽古が、後の鎌倉時代の武家社会で行われた「犬追物(いぬおうもの)」などのはじまりといわれています。現在の愛犬家たちには考えられないことです。)三浦大介は那須で悪狐を退治した半年後に、再びこの八幡神社を訪れ、勝利の報告をしました。そしてこの子孫がこの地に住み着いたとも伝わっています。
 まあこのお話は、妖怪退治でもあり、色々な読み物などとなっていくうちにストーリーは変化しているでしょう。
 さて、この悪狐退治の話しはまだ終わりではありません。三浦介(みうらのすけ)と上総介(かずさのすけ)の活躍で退治された(白面金毛)九尾の狐は巨大な毒を出す石(殺生石)に姿を変え、そこに近づく住民を始め、やってきた多くの高僧たちをその毒で何人も殺してしまいました。三浦介たちが悪狐を退治してから200年以上経った南北朝時代に会津の喜多方に示現寺という寺を再興した高僧の「源翁(玄翁)」が一三八五年八月にこの殺生石を破壊することに成功しました。そして細かく砕かれたこの殺生石は各地に飛散し、毒は小さくなったのです。この「玄翁」の名前からトンカチ(金槌)のことを「げんのう(玄能)」と呼ぶようになりました。さて、この全国に散らばった殺生石ですが、どういうわけか「高田」という地名のところに飛んでいきました。
 美作国高田(岡山県真庭市)、越後国高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)(一説には美作高田)、豊後国高田(大分県豊後高田市)などです。この日本の九尾の狐といわれる「玉藻前」は鳥羽上皇の寵愛を受けた藤原得子(ふじわらのなりこ)、後の美福門院(びふくもんいん)がモデルといわれています。
 さて余談になりますが、この悪狐の話をもとに「悪狐伝(あっこでん)」という神楽が安芸高田市(広島県)に伝わっています。この地は毛利元就が治めた土地で「吉田町」といいます。毛利元就が小さなところから中国全体(特に広島)を制した非常に優秀な武将がこの地で城を構えていました。そして、常陸国の宍戸氏が安芸に渡って土着した安芸宍戸氏と手を組んで広島全土を手中に収めました。そして江戸時代の広島藩と常陸の真壁藩や笠間藩は赤穂の浅野家の歴史を見ると皆つながってきます。これも面白い事柄です。
 もしここを訪れるなら春の桜の頃か、麓の駐車場のわきにアヤメ公園がありますのでアヤメの咲く頃がよさそうです。

 

市町村 常陸大宮市
原文著者 木村 進
原文著者(ヨミ) キムラ ススム
生年 1948年
原文著者備考 昭和23年 新潟県小千谷市に生まれる
現在 茨城県石岡市在 (株)アルテック 代表
昭和49年 慶応大学工学部大学院(修士)卒
大手電機メーカで設計などに従事、定年退職後ふるさとに眠る埋もれた歴史などを掘り起こし、ブログや書籍で活動をしている。
著書に「ちいきに眠る埋もれた歴史シリーズ」がある。「ふるさと風の会」会員
原文著者 LaLa mosura
原文著者(ヨミ) ララ モスラ
原文著者備考 イラスト 現在 茨城県石岡市 在 中学生 小学6年生の11月からイラストを描き始め、絵はすべてのモノに命があり、土や水にも顔があると考えて描いている。想像の世界のキャラクターたちがカラフルに描かれた独特のイラストが評判を呼び、地元を中心に個展を数回開いている。
媒体 zine
収録資料名 茨城のちょっと面白い昔話
収録資料名(ヨミ) イバラキ ノ チョット オモシロイ ムカシバナシ
収録資料シリーズ名 ふるさと風の文庫
民話ページ P10 〜 P18
収録資料出版社 ふるさと”風”の会
収録資料出版年月日 2016.12.1
言語 日本語
方言 標準語
備考 ¥650
収録資料シリーズ名および収録資料出版社は、標題紙による。
奥付には「風の文庫」「地域に眠る埋もれた歴史シリーズ(別冊2)」とある。

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