茨城の民話Webアーカイブ

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文太長者

ブンタ チョウジャ

原文

むかし、鹿島神宮の下男に文太というたいそう正直な働き者がおりました。
文太は、朝早くから夜おそくまでよく働き、誰からも好かれておりました。
それがある日のこと、文太は宮司にお暇をちょうだいしたいと申し出たのです。
宮司が驚いて訳を聞くと、「私がここにお世話になってもう十年になります。三十歳になる前に、他のことで自分の力をためしてみたいのです。このあたりの海岸は塩づくりにむいているので塩焼きをやってみようと思っています。」というのです。
宮司は、働き者の文太を手放したくはなかったのですが、文太の決心がかたいのを知り、心よくゆるしてやりました。
文太は、早速、塩づくりに適した角折の浜(現在の鹿島郡大野村)で仕事を始めました。
研究熱心な文太が苦心の末につくった塩は、とびきり上等で、すぐに評判となり、わざわざ他国から買いにくる人もいて、つくるのが間にあわないほどでした。文太はみるみる大金持ちとなり、塩焼きの文太長者と呼ばれるようになりました。その後、近くの村の豪族の娘と結婚をし、何不自由なく暮らしておりましたが、ただ一つかなわぬことがありました。文太夫婦には子供がいなかったのです。そこで二人は、鹿島神宮に七日間お参りをし、子宝が授かりますようにとお願いをしました。そのかいあってか、二年続けてかわいい女の子が生まれ、姉は蓮華御前、妹は蓮御前と呼ばれ、その名の通り花のように美しい娘に成長しました。
この美しい姉妹の評判は、いつしか都の中将の耳にまでも届き、わざわざ常陸の国まで中将の足を運ばせたのでした。中将は、蓮華御前にすっかり心を奪われ、早速結婚を申し込むと都へつれて帰りました。蓮華御前の話でもちきりとなった都では、妹も姉に負けないぐらい美しいという話が帝の耳に入り、今度は帝が蓮御前を后にと申し込まれたのです。
その後、文太夫婦は、中将や帝の使いをうけ、角折の浜をはなれて、二人の娘のいる都へとのぼって行きました。名前も文正と改め、大納言という高い位まで出世して、幸せに暮らしたということです。

 

市町村 鹿嶋市
原文著者 染谷 萬千子
原文著者(ヨミ) ソメヤ マチコ
生年 1947年
原文著者備考 1947年茨城県ひたちなか市生まれ
茨城大学教育学部美術科卒
1973年から1999年まで約26年間朝日広告社茨城支局に勤務し、新聞広告他制作を担当。1981年から茨城の自然探訪シリーズ「ふるさとの昔ばなし」を制作。現在も継続中。余暇には、旧姓岩谷萬千子で版画・アクリル画の政策に取り組む。
1977年 日本板画院展新人賞受賞 水戸で第一回個展
1983年 水戸で第二回個展
1990年 いすゞギャラリーで「ふるさとの昔ばなし」版画展
原文著者 茨城いすゞ自動車
原文著者(ヨミ) イバラキ イスズ ジドウシャ
原文著者備考 発行
原文著者 朝日広告社茨城支局
原文著者(ヨミ) アサヒコウコクシャ イバラキシキョク
原文著者備考 企画
媒体 図書
収録資料名 ふるさとの昔ばなし
収録資料名(ヨミ) フルサト ノ ムカシバナシ
収録資料シリーズ名 茨城の自然探訪シリーズ
民話ページ P78 〜 P78
収録資料出版社 茨城いすゞ自動車
収録資料出版年月日 2000.10.31
言語 日本語
方言 標準語
備考 非売品

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