茨城の民話Webアーカイブ

ヘッダーライン
あいうえお順検索
くわしい検索
ライン

検索結果にもどる

黒塚長者

クロヅカ チョウジャ

原文

むかし、鹿島灘と北浦にはさまれた台地の中ほどに、黒塚長者という金持ちがおりました。このあたりの村々を治めていて、りっぱな屋敷に住み、三十三棟もの倉にはいつもびっしりと米がつまっておりました。
ある朝、屋敷から広々とした田畑を満足そうにながめていた長者は、鹿島灘に沿って限りなく続く松林の広大さに改めて気づきました。(そうだ。あの松林を切りひらいて田畑にしたら、今の何倍もの米がとれるにちがいない。)
しかし、呼びだされた農民のほとんどが、「旦那様、松林をなくしてしまったら、砂をかぶって逆に田畑がだめになってしまいます。それだけはおやめください。」と、長者のこの思い付きに反対したのです。
欲ばりな長者は、そんな声には耳も貸さず、松林をどんどん田畑にかえてしまったのです。
しばらくして、村人たちの恐れていたことが現実となってあらわれ始めました。防風林としての役目を果たしていた松林がなくなると風が吹くたびに、田畑は砂に埋もれていきました。その上、その年は日照りが続き、田畑はカラカラに乾上がってしまい、飢えた人々が次々に死んでいったのです。
このうわさを聞いて驚いたのが鹿島の神様で、長者を呼びつけると、「すぐにお前の倉の米をわけて人々を助けてあげなさい。」と言いわたしました。
ところが、何度言ってもききめがなく、きびしい忠告の末にやっとわけたのは、一人につきほんの一握りの米だったというのです。これを聞いて、さすがの鹿島の神もむらむらと怒りがこみあげ、長者の屋敷の近くまでくると、高下駄で大地を強くけり上げました。
けられた砂は高々と舞いあがり、長者の屋敷へ降り始めたのです。砂の雨は、七日七夜続き、長者屋敷は完全に埋もれてしまいました。
その後、屋敷を埋めつくした砂が南の方へ流れていってできたのが、今の鹿島砂丘で、けられた大地がえぐれてできたのが神の池だといわれています。

 

市町村 神栖市
原文著者 染谷 萬千子
原文著者(ヨミ) ソメヤ マチコ
生年 1947年
原文著者備考 1947年茨城県ひたちなか市生まれ
茨城大学教育学部美術科卒
1973年から1999年まで約26年間朝日広告社茨城支局に勤務し、新聞広告他制作を担当。1981年から茨城の自然探訪シリーズ「ふるさとの昔ばなし」を制作。現在も継続中。余暇には、旧姓岩谷萬千子で版画・アクリル画の政策に取り組む。
1977年 日本板画院展新人賞受賞 水戸で第一回個展
1983年 水戸で第二回個展
1990年 いすゞギャラリーで「ふるさとの昔ばなし」版画展
原文著者 茨城いすゞ自動車
原文著者(ヨミ) イバラキ イスズ ジドウシャ
原文著者備考 発行
原文著者 朝日広告社茨城支局
原文著者(ヨミ) アサヒコウコクシャ イバラキシキョク
原文著者備考 企画
媒体 図書
収録資料名 ふるさとの昔ばなし
収録資料名(ヨミ) フルサト ノ ムカシバナシ
収録資料シリーズ名 茨城の自然探訪シリーズ
民話ページ P74 〜 P74
収録資料出版社 茨城いすゞ自動車
収録資料出版年月日 2000.10.31
言語 日本語
方言 標準語
備考 非売品

このおはなしが伝えられた地域

資料スキャンデータダウンロード