常陸国風土記人

風土記とは?

風土記撰進の詔

和銅六年(713)五月甲子(二日)、元明天皇は全国に向けて風土記撰進の官命を出しました。この時代は「風土記」という書名は公式ではなく、諸国の風俗地理をまとめて提出せよという命令のみでした。

その後、平安時代となり延喜十四年(914)の三善清行の「意見封事十二箇条」や、同じ頃作成された矢田部公望の「日本紀私記」、延長三年(925)の太政官符などに「風土記」の名が見え、平安時代には「風土記」という総称でよばれるようになったと考えられています。

風土記の記載内容

風土記の官命は、「畿内七道諸国の郡郷の名は好き字を著けよ。其の郡内に生ずる所の銀銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目を録せよ。及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老の相伝の旧聞異事は史籍に載せて言上せよ」というものでした。この官命を分かりやすくすると

  1. 郡郷名を好い字(漢字2字)にして記載
  2. 郡内の銀銅などの鉱物、植物、動物、魚、昆虫の目録を記載
  3. 土地の肥沃状態を記載
  4. 山川原野の地名由来を記載
  5. 古老が伝える旧聞異事を記載

ということになります。この5項目について諸国では、各郡単位で調査が実施され、各郡司から編纂責任者である国司へ提出されていったと考えられます。その後、各国司の考えや編纂意図のもとで、提出された各郡の報告の編集が始まり、それぞれの国ごとの風土記が誕生していったのでしょう。

現在伝わる5つの風土記

このようにして作成された風土記ですが、1300年の時を越えて伝えられたものは、5つの国のものだけとなってしまいました。古の記録を後世に伝えるのが、いかに難しいかが分かります。伝承されている5つの風土記は、東から『常陸国風土記』、『播磨国風土記』、『出雲国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』です。

これらの5つの風土記の中でも完全な形で伝承されているものは『出雲国風土記』のみです。そして作成時期や編纂者が明らかとなっているものも『出雲国風土記』のみとなります。『出雲国風土記』の巻末には、「天平五年二月三十日 勘造 秋鹿郡人 神宅臣金太理 国造帯宇郡大領外正六位上勲十二等 出雲臣広嶋」とあり、天平5年(733)に郡司である神宅臣金太理が出雲臣広嶋の監修の下に作成したことが分かります。詔が出されてから20年も経過していることから再撰本と考える説もあります。その他の4つの風土記は、不完全なものですが、当時の様子を物語る貴重な資料として扱われています。中でも『常陸国風土記』は唯一東国を記述したもので、古代東国を考える際には常陸国以外にも参考とされています。