薬谷長者
クスリヤ チョウジャ
原文
むかし、大里(現在の金砂郷村大里)の薬谷地区に薬谷長者と呼ばれる大金持ちが住んでおりました。それはそれはたいそうな金持ちで、田畑の広大さはたとえようもなく、その上りっぱな屋敷には大勢の使用人をかかえておりました。そして、屋敷をとり囲むようにたくさんの倉が建ち並び、中には、米や金がぎっしりとつまっておりました。
ある時、源義家が何万もの兵をひきいて、奥州征伐に向かう途中、この長者屋敷に立ち寄り、充分すぎるほどの酒とごちそうで、手厚いもてなしを受けました。
その上、長者は出発の時になって急に雨が降り出したため、軍勢の雨具として、蓑と笠までも用意してさし出したのです。
これには義家も驚き、感謝して旅立っていきました。ところが、途中で義家は、「あれはどの富と力を持つ長者をこのままにしておいては後々の災いのもとになる。むほんなどくわだてぬうちに滅してしまおう。」と考えました。そして、家来に命じて、長者屋敷を焼き払い、一族を皆殺しにしてしまったのです。しかし、この時、長者の幼い娘だけは、乳母の機転で無事、下岩瀬(現在の大宮町下岩瀬)へのがれ、身を隠しました。
その後、肉親を失った悲しみをのりこえ、美しく成長した娘は、ある日岩瀬明神(現在の春日神社)にお家再興の願をかけました。
そして、百日目の満願の日のこと、娘は境内の池のほとりの松の枝に、大切にしてきた八角の鏡をかけて化粧をし始めました。ところが、ちょっとしたはずみで鏡を池の中に落としてしまったのです。あわてて鏡をとろうとした娘は、あやまって足をすべらせ、池に落ちて死んでしまいました。
あわれんだ村の人々は、それ以来、この池を「鏡ヶ池」と呼び、娘の冥福を祈ったということです。
この池も現在は、まわりをコンクリートで固められ、水もほとんど干上がってしまい、美しい水をたたえていたという昔のおもかげはありません。
また、長者の娘の亡骸は、大里の地に眠っているともいわれています。
市町村 | 常陸太田市 |
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原文著者 | 染谷 萬千子 |
原文著者(ヨミ) | ソメヤ マチコ |
生年 | 1947年 |
原文著者備考 | 1947年茨城県ひたちなか市生まれ 茨城大学教育学部美術科卒 1973年から1999年まで約26年間朝日広告社茨城支局に勤務し、新聞広告他制作を担当。1981年から茨城の自然探訪シリーズ「ふるさとの昔ばなし」を制作。現在も継続中。余暇には、旧姓岩谷萬千子で版画・アクリル画の政策に取り組む。 1977年 日本板画院展新人賞受賞 水戸で第一回個展 1983年 水戸で第二回個展 1990年 いすゞギャラリーで「ふるさとの昔ばなし」版画展 |
原文著者 | 茨城いすゞ自動車 |
原文著者(ヨミ) | イバラキ イスズ ジドウシャ |
原文著者備考 | 発行 |
原文著者 | 朝日広告社茨城支局 |
原文著者(ヨミ) | アサヒコウコクシャ イバラキシキョク |
原文著者備考 | 企画 |
媒体 | 図書 |
収録資料名 | ふるさとの昔ばなし |
収録資料名(ヨミ) | フルサト ノ ムカシバナシ |
収録資料シリーズ名 | 茨城の自然探訪シリーズ |
民話ページ | P81 〜 P81 |
収録資料出版社 | 茨城いすゞ自動車 |
収録資料出版年月日 | 2000.10.31 |
言語 | 日本語 |
方言 | 標準語 |
備考 | 非売品 |