八朔祭り(那珂湊天満宮の祭礼,天満宮の祭礼)
ひたちなか市の旧那珂湊市には、300年以上の歴史のある「那珂湊天満宮の祭礼」(通称、「八朔祭り」)があります。
天満宮の祭礼がいつから行われてきたかは定かではありませんが、水戸藩第2代藩主徳川光圀公が天満宮を参詣した際に御神体を拝されたところ、菅原道真公ではなく十一面観音(仏像)が祭られていたため、当時有名な彫刻師の東條常信に命じて菅原道真公の神像を作らせ、元禄8年春に観音の像と取り替えらせ、祭礼の式も水戸東照宮にならって新たにし、御神幸(ごじんこう)行列に神輿の供奉(ぐぶ)を定めたといわれています。
天満宮の祭礼は、明治時代後期から「八朔祭り」と呼ばれるようになりました。八朔祭りの「八朔」とは、8月1日(毎月初日を朔日という。)にあたり、この季節は農作物にとって重要な時期であるため、神々に豊作を祈る祭りが行われたこと、また、歴史的には、徳川家康公が江戸に入府した日であることから、全国各地で祝い事が開催されました。
天満宮の祭礼の形式は、浜降(はまおり)祭で、神輿が天満宮を出発し、町中を通って鎮座石で祭事を行った後、帰路につきます。祭礼は、年番町お宮参りから還幸祭までの4日間行われ、3日目の神幸祭では、各町の風流物が明神町に集まり、年番町、稚児の行列、各町の町印(ちょうじるし)、和田町火消纏、露払いの弥勒(みろく)、獅子(ささら)など各町の風流物が行列を成し、御仮殿までの神輿渡御が行われます。また、最終日の還幸祭では、御神輿が御濱入りするための準備として、御綱掛けが行われた後、御濱入りにより御神輿が海水で洗い清められます。その後、夕方には、和田町に各町の風流物が集まり、神幸祭と同様に行列が成され、天満宮に御還りになります。
祭礼では、露払いを担う六町目の獅子と、元町のみろくがあります。獅子とみろくについては、文献がないため、その起源は不明ですが、いずれも3体の人形をかかげた屋台で、1体ずつ舞を舞って露払いを行います。また、祭礼を華やかにするため、各町から風流物が出され、街中を練り歩き、祭りを盛り上げます。那珂湊の風流物は、明治以前までは、上段へ「ガンズキ」或いは岩壁と称して断崖のような背景が描かれ、地上より9メートル位に、養老の滝、牛若丸、鯉の滝登り等々の各町の飾り物があったそうですが、明治45年に那珂湊の街中に電灯線が張り回された後は、歩けなくなったため、高さが低くされました。
3日目の神幸祭、最終日の還幸祭では、朝から夜まで各町の風流物、露払いの獅子・みろくが町中を練り歩き、町中の至る所で、祭囃子、掛け声が響き渡り、1年のうち最も華やかで盛り上がる日となっています。また、神輿渡御の行列は、初めて観る人に強烈な印象を与えます。祭りが盛大に行われることで、元町の町印に掲げられた「年豊人楽」(ねんぽうじんらく)、としゆたかにひとたのしむ、山の幸も海の幸も豊かであれかしとの庶民の願い、五穀豊穣、大漁満足、四海平安の人々の祈りが受け継がれています。
『天満宮祭事資料』(元町氏子会、1980年1月31日発行)、『関東みなと八朔祭り』(東泠書房、2010年6月8日発行)、ひたちなか市からの情報提供より
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読み仮名 | はっさくまつり(なかみなとてんまんぐうのさいれい) |
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市町村名 | ひたちなか市 |
活動実施場所 | ひたちなか市湊中央1-2-1 |
ジャンル | 祭礼 |
文化財の体系 | 無形民俗文化財 |
文化財等の指定区分 | 市町村指定 |
指定年月日 | 1980年11月26日 |
存続状況 | 活動中 |
活動団体名 | 天満宮祭礼保存会 |
備考 | 写真提供者:常陽藝文センター |